池の白鳥

 今年は雪解けが早かったが、池の氷はなかなか融けず、

ここの大きな池は200mほど奥だけが一部溶けていて、

そこにいたのは、渡りの後半部分と思われる数羽。

 こちらは、横150m奥70mほどの池で、

氷溶けが早かったほうだが、周りはまだ氷。

 朝6時頃、このグループの多くはまだ寝ている。


 幼少期の頃の話。

宿泊客以外にも来る客は多かった。

客にはお茶とお菓子を出していたので、

客が帰ると、兄たちは残りのお菓子を取り合っていた。

 私はお菓子に見向きせず、タバコ(シケモク)オンリー

いくら注意されても、隠れてタバコをふかし(くゆらせ)

ゆれる煙の動きを楽しんでいた。

吸い込んではいなかったようので、

他人が口にしたものの衛生面と、隠れての火の不始末からの火事などを考慮して、

私専用にタバコを与えてくれたそうだが記憶にない。

 タバコの興味は幼少期で間もなく無くなったそうだが、

小学校低学年の頃、おもちゃの線路を走る蒸気機関車が煙を出さないので、

汽車の動きに合わせて、寝そべりながらタバコの煙を出した記憶はある。

 ロシアが付けた赤い標識

(4月5日発信の『農地にいる白鳥2-2』で掲載したGPS装置の付いた白鳥の名はアサミだと確認できた)

 こちらは、50m四方程度の池だが、

手前に陣取っているヤカラがいて近づけず。

 次回は白鳥最終で飛ぶ姿。

川の白鳥

 白鳥はもう飛んで行ってしまったが、

遅ればせながら、白鳥の写真3回とヒシクイ他1回を続けて発信予定。

 (いずれの写真も橋の上から撮影)

 (橋の東側は逆光と川からのモヤで薄暗く見える)

 早朝6時過ぎ頃から8時頃までに、餌場の農地に向かって飛び始める。

(大型鳥は体が温まるまで飛ばないと聞いているが?)


 またまた幼少期の頃の話。

ブログ外の友から、文書が少ないと時折指摘を受けるが、

暇の毎日で皆さんに報告するようなことも無い。

ならばと、数年前に幼少期や過去の話を書こうとしたが、数回で挫折。

再度同じようなことを書き始めたが、皆さんにはどうでもいい話・・・どこまで続くかは気分次第。

 私は兄5人姉1人で末っ子の6男。

母は七福神と言っていたが、すでに2人の兄は他界。

兄弟が多くていいね、とよく言われたが、

それを感じたのは大きくなってから。

 父母にまともに怒られたことはほとんどなかったが、

兄たちのシモベで命令され、怒られ、からかわれた。

怒るのはその都度の物事の当事者であった兄であり、

その時の他の兄は慰めてくれもした。

まさにアメとムチの繰り返し。

 「お前は橋の下から拾われてきた」と兄に言われて、

しばらくすねていたら

別の兄が「ただでさえ子供が多いのに拾うわけないだろう」と慰められたが、

その不安は大きくなって戸籍を見るまで続いた。

それぞれの兄がどの兄だったかは記憶にない。

(天気と角度によって川の色は変わる)

 次回は池にいる白鳥。

マガン 2/2

 今回はすでに旅立ったマガンの飛ぶ姿。

 今回も写真とは関係ない話。

小学生の時、終戦直後は食料不足で、その頃の子供たちの多くは栄養失調だったと先生に教えられ、

だから僕も体が細いのだねと母に言った。

 母が言うには、食べ物は豊富にあったと言う。

子供が多く、使用人もいて配給米では到底足りないところだったが、

旅館は母が営み、父は柾屋(まさや)だった。

(トタン屋根になる前は、薄い木(柾)を瓦のように並べて屋根に打ち付けていた。)

 農家ではワラ屋根がまだあって、柾屋根に替える時期だったよう。

農家はお金が無く、こちらは食料がないことから、工賃は米や野菜の農作物だった。

だから食料は十分にあって、旅館も続けられたとのこと。

 当時の米はすべて配給米に限られて、個別流通はできないことになっていたが、

年貢米を納めていた大昔から、農家は米を隠す知恵があって、それは続いていた。

 ある日警察による米の所有検査があると聞いて、

米を風呂の中に隠しふたをした。

入り切れなかった米は、

検査があると教えてくれた、下宿をしていた警察署長の部屋に入れて布団をかぶせ隠した。

 全ての部屋、場所を検査して回ったが、警察署長の部屋だけは見なかったので無事済んだとのこと。

 

 茶色ばかりだったので、おまけにアオサギ

 線路沿いにある複数の高い木で、アオサギたちが巣作りをしていた。

 上3枚は黄砂の多い日に写したのだが、

ボツボツと写っているのは、黄砂なのか虫なのか?



マガン 1/2

 マガンの特長は、オレンジ色のくちばしの付け根が白く、胸に黒い線が入っている。

 終戦直後の私が生まれる前の、写真と関係ない話。

朝鮮人の捕虜収容場が炭鉱にあって、

父はその副隊長だったそうだ。

隊長が捕虜に対しきつく対応していたので、

父はこっそりと食料などを差し入れしていたとのこと。

 終戦になって、その捕虜たちは朝鮮に帰るまでの間、

お世話になったと我が家(旅館)に泊り、

離れの部屋には隊長が隠れ住んでいて、

バレないようにするのが大変だったと聞いている。

 その朝鮮人たちが、朝鮮で無事に暮らしているだろうかと心配していた話が記憶にある。

 上の写真の上の方が白っぽくなっているが、

下の写真の渦巻く霧が、こちらに来たことによるもの。

 霧も通り過ぎ、撮影再開。

 通常は車の中から写すのだが、

近づいて写そうと思って、車のドワを開けたとたんに飛び立った。

マガンは人を恐れている。


 

 

農地にいる白鳥 2~2

 我が地域に来るのはコハクチョウだけだったので、

これまで『コハクチョウ』と表現していたが、

最近『オオハクチョウ』も多くいることに気づいたので、

これからは『白鳥』と表現します。

 羽がもう少し閉じて、ハート型のように見える時に撮ったつもりだったのだが、ちょっと遅かった。

 昨年12月に国内で初、カメラ付きGPSを伊豆沼と内沼でオオハクチョウ10羽に装着したとのこと。

その写真と見比べて間違いなくその1羽。

 小学入学前の話。

毎朝、魚菜類を行商に来るおばさんが好きで、

時々大好きなカニやタラコをくれた。

 学校行くとおばさんに会えなくなるから、

今のうちにお礼をしたらと母に言われ、

母に手伝ってもらい、食事のお膳を作った。

 羽を広げた鶴が絵描かれていた赤い漆塗り(うるしぬり)のお気に入りのお椀に豆腐の味噌汁をいれて・・・

おかずは3品で・・・記憶にない。

 お椀の絵の開いた白い羽が好きだったので、

白鳥の羽を広げた姿も好きだ。 

 鶴は美人で白鳥は可愛いとイメージしている。

 小学校に入り、行商のおばさんに会うと、

赤いお膳、美味しかったよと何度も言われた。

ある日「竹を割ったように真っすぐ生きなさい。崖に生える松のように曲がったらだめだよ」と言われた。

 意味が解らず、後に母に絵を見ながら説明を受けたが、

竹より松の方が好きになって、

今も竹にはなれない人生を送っている感じ。

 

農地にいる白鳥 2~1

 白鳥コハクチョウは餌を得るため、日中は農地にいる。

それも雪が残っているような、水分量が多い農地。

 だから、白鳥の多くは汚れている。

 今年も多くの白鳥が滞在してくれたが、

私が子供の頃、白鳥を見ることはなかった。

 1980年頃から白鳥が飛来してくるようになり、

我が町の観光パンフに白鳥の写真が使われて、

住民も白鳥が来ていることを知った。

 今では、農家の家の近くでも見られるほど増えた。

 北に帰る長旅前の休息。

北から来て本州に向かう秋には、見ることができない。

山境の隣町には来ているのだが。

 

動物たちの写真と露天商

 今回は3月中旬に写した写真。

 小学校低学年の経験。

神社祭りには道路沿いに沢山の屋台が並ぶ。

その露天商は的屋テキヤと呼ばれていた。

露天商の多くは露店のテントで寝ていたが、

的屋の元締めなどは旅館(私の家)に泊っていた。

 毎年のことなので元締めなどと顔見知りになっていた。

露店のしょば代(場所代)集めのお供をしたこともあって、

金魚・お面・綿あめなど手に持てないほどもらった。

 ある時、親分?の一人が「坊や背中を流してくれ」と言うので一緒に風呂に入った。

一生懸命背中をこすって、こすって、「全然落ちないよ」と言うと、これは落ちないんだと笑われた。

背中全体に描かれた恐ろしいような絵。

初めて見てふれた刺青(いれずみ)だった。

(朝方はまだ寒いので鼻息が白く見える)

 露天商は近所の家から水をもらったりしていた。

露店が並ぶ道路は町道なので、的屋の元締め立会いのもと、町担当者がチョークで場所決めをし道路使用料を取る。

私が町職員になって、そのことを知って、
仮設の手洗い場を設置するよう指示し、それが続いた。

(ちょっと失礼)

(この日は10台ほどの車)

(保線)