マガン 2/2

 今回はすでに旅立ったマガンの飛ぶ姿。

 今回も写真とは関係ない話。

小学生の時、終戦直後は食料不足で、その頃の子供たちの多くは栄養失調だったと先生に教えられ、

だから僕も体が細いのだねと母に言った。

 母が言うには、食べ物は豊富にあったと言う。

子供が多く、使用人もいて配給米では到底足りないところだったが、

旅館は母が営み、父は柾屋(まさや)だった。

(トタン屋根になる前は、薄い木(柾)を瓦のように並べて屋根に打ち付けていた。)

 農家ではワラ屋根がまだあって、柾屋根に替える時期だったよう。

農家はお金が無く、こちらは食料がないことから、工賃は米や野菜の農作物だった。

だから食料は十分にあって、旅館も続けられたとのこと。

 当時の米はすべて配給米に限られて、個別流通はできないことになっていたが、

年貢米を納めていた大昔から、農家は米を隠す知恵があって、それは続いていた。

 ある日警察による米の所有検査があると聞いて、

米を風呂の中に隠しふたをした。

入り切れなかった米は、

検査があると教えてくれた、下宿をしていた警察署長の部屋に入れて布団をかぶせ隠した。

 全ての部屋、場所を検査して回ったが、警察署長の部屋だけは見なかったので無事済んだとのこと。

 

 茶色ばかりだったので、おまけにアオサギ

 線路沿いにある複数の高い木で、アオサギたちが巣作りをしていた。

 上3枚は黄砂の多い日に写したのだが、

ボツボツと写っているのは、黄砂なのか虫なのか?