あまり文書が書けないので、沢山ある8月に写した写真を掲載します。
名前がわかる人は教えてください。
しばらくの間、2日に1度程度の写真ブログが続きます。
8月の花
アゲハ蝶
赤い花粉でタムロしたのかな?
あまり文書が書けないので、沢山ある8月に写した写真を掲載します。
名前がわかる人は教えてください。
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8月の花
アゲハ蝶
赤い花粉でタムロしたのかな?
親友が経営する食堂は宴会が多い。
利幅が多い宴会に力を入れている。
法事などの案内状や座席札を私が作成している。
現職の時いろいろとサポートしてくれた友。
今は私が出来る範囲でサポートしている。
本州との気候の差を痛感しているから、案内文の時候の挨拶部分でしばし悩む。
季語は淡々と使えばよいことではあるが、こちらでさえ夏日が続いている時期に「初秋の候・・・」とは。
確かに、朝夕の寒さと秋風を感じる日も多くなり、いつの間にかセミの声も聞こえなくなった。
虫たち・・・良ければ拡大して見てください。
ひっそり暮らす虫たちは、踏みつけられる小さな花たちは、それらの世界で生きている。
人に見向きもされず無視され、ときには嫌われる。
まもなくこれらはどこかに消えて、蜘蛛の糸が残る。
季節の花は、つぼみの時から目を細めて注目され、花が咲くと笑顔で自慢され、散るときには憂い感情が注入され人の手で処理される。
↓クモの巣を修理中
それがなんだ・・・! はい、人間の勝手な思い、自己満足ですが、それで何か? ・・・いや、それで良いのでしょう。
8月7日、隣町に住む姉の旦那が緊急入院。
8日、親友が血管を広げるための3日間の入院。
9日、7日の緊急入院に私とともに関わった兄が緊急入院。
その直後にも近所の方を緊急搬送。
周りが後期高齢者ばかりであるが、連続的な緊急対応は初めての経験だった。
お盆ー花火で兄の孫たちを盛り上げる。
24・25日、妻の兄弟たちが我が町に集合。
福岡、名古屋、神奈川、札幌と遠距離のため、全員集合は数年ぶりの事。
母親(姪)の話に注目する子供たち
その間、会議や行事、雑用の合間で、写真を撮りながら、気持ちを落ち着かせる。
(拡大できます)
26日、町長後援会のパークゴルフ。
懇親会場の別席では、遠くの町のある議員後援会の懇親会をしていた。
ビンゴゲームを3回もして、高価な品を持ちきれないほどの状態で帰っていった。
どう考えても公選法違反を疑ってしまう。
8月もあとわずかと、いつものウイスキーを飲みながら、忙しかった今月を振り返り、明日は見舞いに行こうかと考えた。
その翌日27日の朝、病院からの電話で、姉を乗せて駆け付けた。
同日午前、兄が退院して息子の車で家に戻る。
そして午後、姉の旦那は葬儀社の車で家に戻った。
月末がこんな結果になるとは想像もしていなかった。
故人を迎い入れた部屋で沈黙状態の時、娘が卓上カレンダーを指差した。
故人は、葬儀社任せのひっそりとした葬儀を嫌っていた。
なので、以後の葬儀に影響しないと思われる範囲で、それなりの葬儀とした。
昨日、初七日をひっそりと身内だけで済ませた。
物理的余裕があるが、精神的余裕がない。
これ意識の問題。
このままブログを書かないような気がするので、
今回も取りあえずの、先週写した写真ブログ。
米の収穫はあと1か月ほど先になる。
この写真はこれまでの一般的土地改良で、1枚の田面積は、50m×200m=1ha(1町) 横線の間隔が50m。
最近はさらに大きくなっている。
右中央の両サイドの棒を水平の下し、薬剤散布をする。
アゼから田の中のドジョウを探すアオサギ
稲が小さい頃は、田んぼの中でこんな感じ。
(色の違いは天気による)
ドジョウを捉える
私が近づき過ぎた(4~50m)ので飛び立つ。
100m以上離れているので、ボケた写真ですがシロサギです
今日はこんなところで失礼します。
久し振りに晴天風弱し。
関東地方では日照不足で野菜が高騰しているとのことであるが、北海道の農作物はほぼ順調の生育と発表された。
今は玉ねぎの収穫中であるが、一部を除いて乾燥してからの出荷なので市場に出るのはまだ先の話。
今回は写真で収穫状況のお知らせブログ。
玉ねぎ収穫作業の始まり
早出しの玉ねぎ~玉ねぎの葉(緑色)が栄養価などで評価されているが、長期保存出来ずロスが多い。
収穫前の通常の状況~葉が乾燥している。
玉ねぎを起こしながら、根を切り、並べそろえる作業。
前進しながら、機械の前面で玉ねぎを拾い上げ、葉を切る。
中間に座っている者が、ハネ品を取り除き右横の黄・青の箱に入れる。
後ろについている金網製のコンテナーに流れ入る。
コンテナーが満タンになると、機械から外し(右)、左にあるトラクターで新たなコンテナーを取り付ける。
どの作物であっても、農作業の多くはこのように機械化されている。
機械はそれぞれ数百万円単位。千万円を超える機械も。
農業を続けるためには機械を買わなければならない。
借金があるから農業をやめられない。
これからの農業は6次産業と国は言う。
1・2・3次産業を加えた6次産業。
生産・加工・販売の全てで収益を上げるべきと言うが、言い換えれば農業(生産)だけでは成り立たないことを認めているのだ。
田舎のおもちゃ屋は、お盆の売り上げがクリスマスよりも数倍売れる。
他の商店も同様に忙しいほど、墓参りで人は田舎に戻っている。
だが、花も飾られないままお盆を終える墓も目立つこの頃。
今回は、踏みつけられる名も知らない小さな花とともに。
私が子供の頃は、学校の廊下で盆踊りを教え、お盆には先生が先頭になって踊ったものだが、宗教行事とのことで、それは無くなった。
その後、盆踊りは下火となり、農協に協賛を持ちかけると、「お盆だからお寺に頼め」と言われ、「盆歌では豊年を祈っているのだから、農協は関係すべき」と説明し、了承を得たが協賛は10年も続かなかった。
担当が変わると考えも変わることで仕方がないことなのだろう。
盆踊りには多くの子供たちが集まるが、輪の中で踊る子は少ない。
参加賞を良くし、ビンゴゲームをし・・・担当者はいろいろ工夫するのだが、やり終えた満足感とむなしさとを感じるのだ。
そんなこんなで、盆踊りを止めようかとの論議はこれまで何度も起きている。
立場上、久しぶりに盆踊りの手伝いを2日間行った。
それ程の仕事量ではないが、気疲れと言うものか己の老いを感じてしまう。
数件出る出店は皆知り合いだから、挨拶代わりにそれぞれにお金を落とさなければならない。
親しくしている子供を見つけては買い物をするのだが、最近の子供は遠慮しているのか親の教えなのか、1つを得るとそれ以上を望まない。
だから、何人もの子供に付き合ってもらうのだが、子供を探すことと出店との往復が結構疲れるものだ。
今年は珍しく踊りの輪が2重になる程に子供が多かった。
保育所の先生たちが例年、先頭に踊ってきたことが、ようやくその成果として出てきたのか?
社会・生活の何らかの変化からきているものなのか?
たまたま偶然なのだろうか?
そう言えば、今年の正月も人出が多かった。
300人を超えるであろう観客の中に、名前と顔が一致できる人は少ない。
何人もの方から「お久しぶりです」「元気にやっています」「私の子供です」などと声がかかり、それなりの挨拶をするのだが、思い出せない人もいる。
現職を離れ8年も過ぎれば、女学生だった子は化粧をし、淑女は結婚し母の風格をそなえ成長・変化する。
私は、何も変わっていない昔のままとほざいている。
北海道の多くは8月7日に七夕祭りをする。
北海道の竹は細いので、柳の木に飾り付けをする。
私が子供の頃、七夕が終ってから飾り付けをした柳をそのまま川に流すのだが、わずか数十メートル先の岸に引っ掛かる。
川の美観を損ねるとのことで、その後は各自が焼却することになった。
さらにその後、燻煙被害が問題になり七夕飾りは徐々に消えていった。
そんなこともあって、わが町では保育園などがシンボル的に継続している・・・・はずだった。
七夕飾りを探している頃の夕陽
柳の木の飾りつけ写真をここに掲載しようと考えていたのだが、七夕の当日緊急の要件が起きて、日中不在となった。
日没直前、街中を車で回ったが飾りつけを見ることはなかった。
私がかつて所長をしていた保育所でも無かった。
施設長をしていた高齢者施設だけが飾りつけをしていた。
その当時職員の一人が仙台出身だったので、仙台式の飾りつけと、園に植えてある木に飾りつけをしていたのだが、当時のままの飾り付けがされていた。
嬉しかった。
翌日保育園長に尋ねると、柳を使わず竹を真似た市販のものを使用し屋内で飾りつけをしたとのこと。
結局我が町では柳を使った飾りつけは無くなっていたのだ。
七夕には園児が「ローソク出せよ・・・♪」と歌いながら、街中を回り、商店などからお菓子をもらうことが30年程続いている。
元々の歌は「ローソク出せよ、出さねばカッチャクぞ、おまけにヒッチャクぞ・・・♪」
これは失礼だと、私が現職のとき「ローソク出しておくれ・・・♪」に変えたのだった。
お菓子を出していた商店が徐々に閉店しているので、
来年は私の家でもお菓子を用意するからと園長に伝えた。
以下の写真は景観を考えて、個人が道端に植えている花たち
北海道でも7月7日が七夕祭りの地域はある。
その一つが函館市。
愛読するid:kemoxxxxxさんが、函館を話題にしているので、私も便乗してその函館について述べよう。
綺麗な街並みと夜景など観光で注目されている函館。
函館市では、1,000戸を超える焼失の大火が、明治から9回あったと記録に残っている。
1934年3月21日の大火も、1,100棟の延焼・2,000人を超える死者がでた。
当時の整髪剤が引火性の強いもので、火の粉で頭から火が付き、その人たちは冬の海に飛び込んだと、生々しい状況を現場にいた人から子供のころ聴いた。
日本の整髪剤が引火性の弱いものに変わる、大きなきっかけになったとのこと。
また、葬儀に死者の顔を見せられる状況でなかったこと(裏付けは取っていません~他説あり)などからか、函館の葬儀は、今でも火葬した後に葬儀が行われている。
北海道の行政・経済の中心だったことに加え、この様な災害もあって、北海道の(地域)福祉の原点は函館であると福祉関係者から言われている。