ヒシクイ 渡り鳥最終

 上の写真はマガンで、口周りの白と胸の黒い模様が無ければヒシクイでマガンよりも大きい。

(大きい1羽だけがヒシクイ

 こちらに渡ってくるヒシクイは少なく、

多数のマガンに混ざっているので見つけるのは難しい。

またヒシクイだけの写真は少ない。


 以下、オナガガモなど


 小学入学時、高校生の姉に連れられ写真館で記念の写真を写した。

両親は商売で忙しく、年の離れた兄たちが私の親代わりで面倒を見てくれていた。

兄弟の良さも述べて、

渡り鳥の最後の写真とともに、幼少期の話も終わり。

 渡り鳥たちはもういない。

福寿草もほぼ終わり、私のブログは遅れているが、

・・・これからも遅れ続けるだろう。

 

 

白鳥 最終 飛ぶ

 大きな鳥たちは、浮き上がるまでは走り続ける。

飛行機と同じで、大きいほど滑走距離は必要で、

向かい風を受けて飛び立つ。

 (青空だと、泥水の川も青く綺麗に見える)

 飛び上がれば優雅。

 羽の汚れは、餌を得るための苦労の証。

 またまた幼少期の話。

その頃はまだ終戦後の不安定な社会情勢が続いていて、

泊り客も何かと問題を抱えていた人もいた。

特に女性客は、追ってきた男にたたかれたり、自殺(自殺未遂)する人もいて、それを子供ながら見てきた。

 ある日、私と同じぐらいの幼女を連れて泊った女性も、男から逃げてきたそうで、母は可哀そうに思い、

飲み屋だった隣の家を無料で貸し、その母子を住まわせ飲み屋をさせた。

商売も軌道に乗り、生活も落ち着き母子仲良く暮らせるようになって、

私にも親切にしてくれた。

 一方、いつもの通り私は兄たちにからかわれ、命令され自由にならないことに不満があり、のがれる方法を子供なりに考えていた。

それで、おもちゃなどの宝物を袋に入れ、

自由にしてくれるだろう隣のその家に家出した。

 邪魔する者も無く、思うままに自由に楽しく過ごして、

気持ちよく寝たのだが・・・

 

 朝起きたら自分の部屋に戻されていた。

たった1日だけの家出だったが、

家出の決断と親切にされた1日は記憶に残っている。

 真下から見るとデブッチョ。

 長い間白鳥のお付合いありがとうございます。

次回はその頃に写したヒシクイ等で、渡り鳥完結。




 

池の白鳥

 今年は雪解けが早かったが、池の氷はなかなか融けず、

ここの大きな池は200mほど奥だけが一部溶けていて、

そこにいたのは、渡りの後半部分と思われる数羽。

 こちらは、横150m奥70mほどの池で、

氷溶けが早かったほうだが、周りはまだ氷。

 朝6時頃、このグループの多くはまだ寝ている。


 幼少期の頃の話。

宿泊客以外にも来る客は多かった。

客にはお茶とお菓子を出していたので、

客が帰ると、兄たちは残りのお菓子を取り合っていた。

 私はお菓子に見向きせず、タバコ(シケモク)オンリー

いくら注意されても、隠れてタバコをふかし(くゆらせ)

ゆれる煙の動きを楽しんでいた。

吸い込んではいなかったようので、

他人が口にしたものの衛生面と、隠れての火の不始末からの火事などを考慮して、

私専用にタバコを与えてくれたそうだが記憶にない。

 タバコの興味は幼少期で間もなく無くなったそうだが、

小学校低学年の頃、おもちゃの線路を走る蒸気機関車が煙を出さないので、

汽車の動きに合わせて、寝そべりながらタバコの煙を出した記憶はある。

 ロシアが付けた赤い標識

(4月5日発信の『農地にいる白鳥2-2』で掲載したGPS装置の付いた白鳥の名はアサミだと確認できた)

 こちらは、50m四方程度の池だが、

手前に陣取っているヤカラがいて近づけず。

 次回は白鳥最終で飛ぶ姿。

川の白鳥

 白鳥はもう飛んで行ってしまったが、

遅ればせながら、白鳥の写真3回とヒシクイ他1回を続けて発信予定。

 (いずれの写真も橋の上から撮影)

 (橋の東側は逆光と川からのモヤで薄暗く見える)

 早朝6時過ぎ頃から8時頃までに、餌場の農地に向かって飛び始める。

(大型鳥は体が温まるまで飛ばないと聞いているが?)


 またまた幼少期の頃の話。

ブログ外の友から、文書が少ないと時折指摘を受けるが、

暇の毎日で皆さんに報告するようなことも無い。

ならばと、数年前に幼少期や過去の話を書こうとしたが、数回で挫折。

再度同じようなことを書き始めたが、皆さんにはどうでもいい話・・・どこまで続くかは気分次第。

 私は兄5人姉1人で末っ子の6男。

母は七福神と言っていたが、すでに2人の兄は他界。

兄弟が多くていいね、とよく言われたが、

それを感じたのは大きくなってから。

 父母にまともに怒られたことはほとんどなかったが、

兄たちのシモベで命令され、怒られ、からかわれた。

怒るのはその都度の物事の当事者であった兄であり、

その時の他の兄は慰めてくれもした。

まさにアメとムチの繰り返し。

 「お前は橋の下から拾われてきた」と兄に言われて、

しばらくすねていたら

別の兄が「ただでさえ子供が多いのに拾うわけないだろう」と慰められたが、

その不安は大きくなって戸籍を見るまで続いた。

それぞれの兄がどの兄だったかは記憶にない。

(天気と角度によって川の色は変わる)

 次回は池にいる白鳥。

マガン 2/2

 今回はすでに旅立ったマガンの飛ぶ姿。

 今回も写真とは関係ない話。

小学生の時、終戦直後は食料不足で、その頃の子供たちの多くは栄養失調だったと先生に教えられ、

だから僕も体が細いのだねと母に言った。

 母が言うには、食べ物は豊富にあったと言う。

子供が多く、使用人もいて配給米では到底足りないところだったが、

旅館は母が営み、父は柾屋(まさや)だった。

(トタン屋根になる前は、薄い木(柾)を瓦のように並べて屋根に打ち付けていた。)

 農家ではワラ屋根がまだあって、柾屋根に替える時期だったよう。

農家はお金が無く、こちらは食料がないことから、工賃は米や野菜の農作物だった。

だから食料は十分にあって、旅館も続けられたとのこと。

 当時の米はすべて配給米に限られて、個別流通はできないことになっていたが、

年貢米を納めていた大昔から、農家は米を隠す知恵があって、それは続いていた。

 ある日警察による米の所有検査があると聞いて、

米を風呂の中に隠しふたをした。

入り切れなかった米は、

検査があると教えてくれた、下宿をしていた警察署長の部屋に入れて布団をかぶせ隠した。

 全ての部屋、場所を検査して回ったが、警察署長の部屋だけは見なかったので無事済んだとのこと。

 

 茶色ばかりだったので、おまけにアオサギ

 線路沿いにある複数の高い木で、アオサギたちが巣作りをしていた。

 上3枚は黄砂の多い日に写したのだが、

ボツボツと写っているのは、黄砂なのか虫なのか?



マガン 1/2

 マガンの特長は、オレンジ色のくちばしの付け根が白く、胸に黒い線が入っている。

 終戦直後の私が生まれる前の、写真と関係ない話。

朝鮮人の捕虜収容場が炭鉱にあって、

父はその副隊長だったそうだ。

隊長が捕虜に対しきつく対応していたので、

父はこっそりと食料などを差し入れしていたとのこと。

 終戦になって、その捕虜たちは朝鮮に帰るまでの間、

お世話になったと我が家(旅館)に泊り、

離れの部屋には隊長が隠れ住んでいて、

バレないようにするのが大変だったと聞いている。

 その朝鮮人たちが、朝鮮で無事に暮らしているだろうかと心配していた話が記憶にある。

 上の写真の上の方が白っぽくなっているが、

下の写真の渦巻く霧が、こちらに来たことによるもの。

 霧も通り過ぎ、撮影再開。

 通常は車の中から写すのだが、

近づいて写そうと思って、車のドワを開けたとたんに飛び立った。

マガンは人を恐れている。


 

 

農地にいる白鳥 2~2

 我が地域に来るのはコハクチョウだけだったので、

これまで『コハクチョウ』と表現していたが、

最近『オオハクチョウ』も多くいることに気づいたので、

これからは『白鳥』と表現します。

 羽がもう少し閉じて、ハート型のように見える時に撮ったつもりだったのだが、ちょっと遅かった。

 昨年12月に国内で初、カメラ付きGPSを伊豆沼と内沼でオオハクチョウ10羽に装着したとのこと。

その写真と見比べて間違いなくその1羽。

 小学入学前の話。

毎朝、魚菜類を行商に来るおばさんが好きで、

時々大好きなカニやタラコをくれた。

 学校行くとおばさんに会えなくなるから、

今のうちにお礼をしたらと母に言われ、

母に手伝ってもらい、食事のお膳を作った。

 羽を広げた鶴が絵描かれていた赤い漆塗り(うるしぬり)のお気に入りのお椀に豆腐の味噌汁をいれて・・・

おかずは3品で・・・記憶にない。

 お椀の絵の開いた白い羽が好きだったので、

白鳥の羽を広げた姿も好きだ。 

 鶴は美人で白鳥は可愛いとイメージしている。

 小学校に入り、行商のおばさんに会うと、

赤いお膳、美味しかったよと何度も言われた。

ある日「竹を割ったように真っすぐ生きなさい。崖に生える松のように曲がったらだめだよ」と言われた。

 意味が解らず、後に母に絵を見ながら説明を受けたが、

竹より松の方が好きになって、

今も竹にはなれない人生を送っている感じ。