前回に続いて餌場での争いの写真を中心に、
若いつもりでいる老人のたわごと。
年寄りの会話には、失敗談が入り込む。
他人には話せないけど、実は・・・・と。
ついつい多くの仲間内に話してしまうが、相手からも同じ様な失敗談を聞き出し、同類を自覚し満足する。
年寄りの会話では、自分の生きているうちに○○は間に合うか?
○○を心配しても、どうせその時俺はこの世にいない‼
こんなことを語っている本人に、己の死のイメージはない。
父が85歳の頃「もういつ死んでも良い」と口癖のように言っていた。
記念誌用の顔写真を求められ、私に写真を写してくれと言う。
「遺影用の写真も必要だから、写真屋さんで写したら」と言って怒られた。
結局私が写し、「もういつ死んでも良い」とは言わなくなった。
その後、その写真が遺影となった。
日常会話のなかで死を語る時、そこに己の死を思い浮かべている人は少ないように思う。
ただ語っているだけのこと。
だが、最近は終活なる意識が強まっているようにも思う。
( ↑ 斜めの盛り上りは耕作道。斜めの青い線は・・・忘れた。)
しばらく使っていなかった機器が上手く反応しないと、
すぐに壊れたと思うところ。
最近は操作を忘れてしまったと、自分の認知症を疑ってしまう。
通常のプリントは出来るのだが、厚手のプリントが出来ない。
こうして、こうやって・・・それで動くはずなのだがと、
いろいろ触ってようやく壊れたことを確信する。
厚手の紙を引っ張るプリンターの腕の力が、
老化現象を起こしてしまったのだった。
A3ノビサイズ高画質の使用はいつまで続けられるかと思いつつ、
一方で、今後何回買い替えることになるのかとも思う。
内心はまだまだ元気でいるつもりだから。
事務機器も自動車も、壊れるのが先か、使いこなせなくなるのが先かが、友人とよく話題になる。
内心は自分が勝つ(長生きする)ことのイメージで固まっている。
(雪の下は氷、手前は氷が出来るところ)
関連性が無い連載もダラダラと9回になった。
飽きがくるまでと宣言したことも有るが、
バカな男の意地でもあった。
古い人間は区切りを大事にする。
10が何の区切りかはわからないが、
次回の10回で区切りをつける・・・つもり。
1日おきの発信は疲れる。
毎日発信している方々の意気込み、能力に敬意を表したい。
心から敬意を表することであるが、
それは自分にとって、己の無能さを隠すことでもある。
争いは続く
(木に貼り付いていた雪が落ちる所をねらったが、辛抱した割には何の迫力もない)
恒例によりスズメで終わり
あと1回お付き合いをお願い致します。