「到彼岸(とうひがん)」と「お布施」について、9月25日付森麻里子女史(id : morimariko)が述べている。
女史のブログはいつも考え深い内容で幾度も読み返す。
この度はたまたま『お布施』に関連?することについて考えていたので、機会をいただき私も述べたいと思う。
今回はお布施のあるべき姿を、物事の行動に当てはめてみよう。
問題を抱えた当事者や、それに近しい取り巻きが相談に来る。
私の所に来るような問題は、解決にそれほど困難はないから、そのことだけの解決に苦労はしない。
だが、解決するための行動までに時間を要することがある。
本人の根本の悩みはそこなのか?(根本的な解決のため) その悩みと言うものが実は生活の友になっているのではないか?(解決が解決になるか) 解決することによって不愉快・迷惑になる人はいないか?(その人に対する対処も考えなければならない) 解決後派生するプラス事項はないか?・・・こんなことを考えたり調べることに結構時間を有するのだ。
これらのことを意識し、新たな問題が起きないようにして、互いに笑顔が出た時に初めて解決したと思う。
そして簡単な問題の場合は、問題を抱える人にとって誰が解決すれば好ましいのかを考え、その人が解決できるようにアドバイスをして解決にむかう。
解決されたとき問題を抱える人が喜び、解決した人が自信を持ち、二人のきずなが深まる。
問題を解決しようとするそこは、友人・知人であり、共に暮らす日常生活の一環であり、生き様であるから、これを広義のお布施の趣旨と解釈するのだが、理解してもらえないかな? 自分勝手な拡大解釈かな?
ところで、福祉活動をしている者が「憐れんだ見方をしないでほしい」のような趣旨の事を言うことがある。
福祉活動を続けてきた立場として、言わんとすることはわかるのだが、その言葉は「対等に」と言いながら、お前たちは福祉を知っていないという軽蔑とおごりそのものである。
可哀そうと思う気持ちから何らかの施し(行為)をすることは、人としての純粋な感情であり、誠意の行動であるから良しとすべきこと。
私もいずれはお世話になるかもしれないと、あるいは死んだとき天国に行けるようにと、そんな考えで施しをすることも良し。
それは人の素直な考えであって、他人をおとしいれたり、軽蔑するものではないから。
福祉とは人としての生き方そのものであると考えるのです。
では先に述べた問題解決で、単純に問題を解決することがなぜ悪いのかとの指摘があるでしょうが、問題を解決するには当事者を含め複数の人にそれなりの影響を与えるから、そこを意識しなければならないのです。
前々回の私のブログでたまたま添付した虹の写真にコメントが寄せられた。
写真の虹は見た目より色が薄れるから、背景が良くないと虹が引き立たない。
近づきすぎた虹の中では、虹とわからない。
寂しい虹1
寂しい虹2
何かを考えているようなハクセキレイ
ハクセキレイをパソコンで切取って合成~完成