『風の盆歌』と言う高橋治の小説や石川さゆりの歌で表現されている、『酔芙蓉スイフヨウ』という花に魅力を感じて、北海道で露地栽培に挑戦したA女史は、3・4年目でようやく開花に成功した。
朝↑(1日限りの花-奥は昨日の花)昼↑ 夕方↑
私より3歳年上のA女史は、お嬢さん大学の芸術学部卒業であったが、名もなき陶芸家と結婚し貧困生活を続けていた。
幼い子供が「○○ちゃんの家では・・・、△△ちゃんの家では・・・」と、自分の家庭の貧困さを訴えた時「そのお母さんたちは、手の上に小鳥をとめられるか」と言ってその場をしのいだそうだ。
自然豊かなところに住んでいた彼女は、手のひらでヤマガラにエサを与えていたとのこと。
陶芸家の旦那さんも名が売れて、彼を師事した陶芸家たちも活躍し始めたころ、私の近くの町に住まいするようになってからのお付き合いであった。
それから数年して旦那さんは62歳の若さで他界したが、彼女は今も自然豊かなところで暮らし続けている。
ヤーコンの花を教えてくれた。
北海道ではヤーコンの花が咲く前に秋が来るので、当たり前に見られる花ではないそうであるが、その頃からの異常な夏の暑さで見られるようになったと、温暖化の影響を知った。
ヤーコン ピーヒョロ~傷のような白い線は魚の汁
トンビのひなを育てた。
高い木の巣から落ちて(追い出されて?)いたヒナを、脚立で届く付近にザルでつくった巣に入れたが、親はエサを与えないのでそのヒナを「ピーヒョロ」と名付けてエサを与え続けた。
親は見守るだけだったが、羽ばたくころには近づくこともあったそうだ。
ピーヒョロは巣から飛び立ってもエサをねだった。
A女史は半分に切った魚を上に投げ、落ちた魚をピーヒョロは一瞬のうちに持ち去り木の上に戻る。
そのエサやりを徐々に少なくして自然に戻すのだが、翌年ピーヒョロは子供を連れてやってきてエサをもらっていた。
これが3代続き、A女史は孫たちにとピーヒョロの絵本を作った。
私はこの絵本を思い出しては読むことがある。
↑ マユを作る白髪太郎 ↑ネグラの透かし俵 ↑産卵~そして死
『楠蚕クスサン』の一生を知る。
楠蚕は夏の一時期街路灯の下で舞う嫌われものの蛾。
その成長をカメラに収めることができた。
「白髪太郎」は戦時中マユを活用された。
そのマユでねぐらを作った「透かし俵」
クスサンは口が無いので、産卵後餓死する。
雪虫はヤチダモの木で越冬する
ヤチダモの木↑ 黄色の枠「コケ」を拡大↑5ミリほどの雪虫
これらのほとんどは過去のブログで掲載したものである。
A女史は自然を愛するが、周りに与える影響に配慮している。
だが、農業経験が無い自称芸術家達が、自然を守ろう・無農薬野菜だと野菜作りをして、そこから発生する害虫に周りが被害を受けている。
そして彼らは失敗し、迷惑をかけたまま去っていく。
古民家を壊さないでと、画廊を開く、軽食喫茶を開く・・・
雨漏りがすると去っていく。
彼らは現実を知らず、思うままにチャレンジし去っていく。