乳幼児の能力は神秘的と思う

幼少の記憶

 陽ざしの強い縁側で半ズボンの足を小さく揺らし、

垣根を修理している祖父の後姿を見ている。

祖父の顔はわからない。

 墓石によると、祖父は私が3歳4か月のとき無くなっている。

多くの人が火葬場まで列を成して歩いていく中に自分がいる。

紙でできた装飾品を、支えられながら炎の中に投げ入れた。

 一番古い記憶はこれぐらいだろう。

ほかにもあったであろう記憶は今は無い。

青空はデカすぎて恐ろしく感じていたが、

流れる雲を見るのが好きだったような気がする。

    (台風が去って流れる雲)

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    (肉眼では見えない雲が奥に広がっている)

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幼児教育

 私が30歳頃(37年ほど前)までは、「幼児教育は3歳に決まる・・・4歳では遅い」だったが、「0歳児からが重要」と言われ、さらに「胎児教育(環境)が重要」に変わった。

わずか5年ほどの間に幼児教育論は大きく変化した。

 それは、胎児は母の問いかけを感じ、母が見た風景や音楽からの感情を共にすると。

どのような研究によるものかはわからない。

 2・3歳頃、胎児の時のこと(経験)を自分の感情で表現することがあり、その後忘れ去ると言う。

 保育所の所長をしていた時『胎児の時の記憶があるか?』を調査する指示をしたが、保育士も母たちもそれを知ることができなかった。

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乳幼児の能力

 ダラダラと書き続けているのは、そもそもは、太り気味の2歳の子が鉄棒をしているのを見てからだ。

 若い親たちには当たり前の光景だろうが、か弱い手を引っ張ると腕が抜けると注意されたものである。

乳幼児は自分の体を支える(ぶら下がる)力がそなわっており、それは母親にしがみつく必要性から動物すべてにあると言う。

人間の子はその後その力が無くなる・・・体力がつくまで。

 乳幼児が持つ素晴らしい能力(記憶・体力)は、なぜなくなるのだろうか?

我々が体力も記憶力も衰えてくるのとは異なるものであろう。

  (台風が去った後の風景~つがいのトンボも増えてきた)

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事実上の無縁仏はどうなるのか。

 お盆の墓参りもほぼ終わっただろうが、お参りされていない墓は年々増えている。

特に公営の墓地はそれが顕著だ。

妻の実家の墓では『管理人に連絡ください』の紙看板が、あちこちの墓石にぶら下げられてあった。

    私の実家の墓はお寺にあるのだが、寺の墓は住職がその 

    家系を知り、それ相応の対処をしているから、あまり問

    題が起きない。

札幌市でも同様の問題を抱えながら対処に苦慮していることが報じられていた。

 原因は大よそ想像できるだろう。

遺骨を移動するには許可がいるが、その法を知らずに勝手に処理した場合、墓石が撤去されてあっても、書類上はそこに遺骨があり続けていることになる。

 

 行政が長い年月、墓地を意識してこなかったツケだろう。

公営墓地の永久使用料は、いまだに百円単位が多い。

墓地を設置した頃の時代は妥当だっただろうが、使用料の改正がされないまま現在に至ったことを見ても明らかだ。

 

東日本大震災で、土地所有者が不明のため復興に支障が出たことや、所在者不明の危険な廃屋の対処ができないのと同じだ。

法改正をしななければ前には進まない。

 子供たちに負担をかけられないと、自らが墓を作ることが増えているが、墓の最後の処理までを考えることは無理だろう。

 

 母は先祖の墓を建て直し、その管理を私に託そうとしたが、子供がいない私ではすぐに無縁仏になると説得し、そばに住む兄に託した。

母が逝去して、兄たちは相続の一切を末っ子の私に任せてくれた。

仏壇を守る兄には、今後必要になると思われる、法事や寺の寄付、親が出すであろう香典等々を考慮して、その分の経費として300万円ほどを別枠で渡し、残りを案分した。

端数が出たので、10人の孫たちにそれぞれ20万円だったろうか渡した。(子供にとって大金の使い方を見たかった)

車好きの子は、不足分を値切ってタイヤを買った・・・私はそれがうれしかった。

今渡すと何をするかわからないと、渡されなかった子もいた。

親が心配していたその子が、結婚したので近々挨拶に来るとのこと。

身内に対する挨拶・礼儀と、身内は祝儀を出すこと知っているようだ。

 

無線操縦のヘリによる農薬散布

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ミッキーマウスの木

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甥の子たち

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光に関心を持つことも面白いですよ。

最低でも週1回はブログを書こうと思っていたが・・・

題材もほぼまとまっていたのだが・・・

表現力のなさで誤解されるのではないかと、

何度も書き直し・・・やめることにした。

 

「美味しかったよ・・・」「ゲームが・・・」「・・・がどうしたよ」

単純であり素朴で純粋なブログに興味を持ってきた。

そんな・こんな気持ちで、今回はいつもと違う内容となります。

 

私は子供の頃から、光に関して関心があった。

明るさはものを鮮明に見ることができる。

まぶしさは逆光のやわらかなシルェットをつくる。

強い光は強い影を作る。

私はまぶしくとも明るい光が好きだ。

だが、関心があるのは暗い光。

 

 ロウソクの光だけで風呂に入ると、

皮膚から汗がジワーッと出てくるのがはっきり見える。

・・・神秘的

 直射日光は空気中に舞うホコリを映すが、

暗闇で床に平行して下から懐中電灯を当てると、

床にたまったゴミが見え、足跡を浮き彫りにする。

(フラッシュ使用写真)・・・きれいに掃除されているよう?

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(懐中電灯の光だけで撮影)

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カメラの限界ですが、目で見るとより鮮明に見えます。

汚い家と批判しないでください。

日中窓を開けていると1日でゴミだらけ・・・あなたの家も。

 

自分の顔(目)にタオルを1枚当てて、蛍光灯を見ると、

自分のまつ毛の影と、目玉を覆っている水(涙?)の動きが見える。

 

色々な光を見るたびに、光の角度を変えてみるたびに、

私は新たな発見をし、ポエムの世界に入り、

モノの見方考え方を鍛錬したような気がする。

 

子供や孫のために実験してはいかがでしょう、簡単ですから。

 

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コリウスのシズク

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ブラックベリー

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表現する側と、理解しているつもりの受けて

 日常の具体的話題や共通の話題ではなく、哲学や倫理・心理など抽象的内容についてを考えた時。

 

 私が言わんとする趣旨を、言葉足らずであってもわかってくれるのは、私が語る前からそのことを(賛同する、しないにかかわらず)おおよそ理解しているから。

  ならば・・・相手が知りえることを、語る必要はあるのか?

 一方、言わんとする趣旨に対する視点が異なっていたり、その基礎知識が相手になければ、どのように説明しても理解はされないであろう。

あるいは「そうだよね」と言いつつ勝手な解釈をされてしまう。

  ならば・・・理解しえないことを、語る意味はあるのか?

 そんなことを考えていた時期があった。

 

 人は、今の生活維持や改善、問題の解決を考えることが日常。

 人とは?生きるとは?なんていう抽象的なことはもちろん、自分の将来?は、ふと考える程度のもの・・・でも考えている。

     (これを集中的に考え込んでいるときは、

       何らかの精神的苦痛を受けている時)

 だから、日常生活の会話・考えには、無意識のうちにその抽象的考えが基本に(自分自身に)なっている。(理論立てができなくとも)

 

 私は相手の気になる発言の時、発言内容のほか、手をあごに当てていた・上を向いていた・・・など状況も把握するようにしている(言うは口だけでなく、聞くは耳だけでなく)。

 それを繰り返すと、なぜそのような発想になるのか・真意は何なのかが大よそわかり、次の行動を察知できる場合があるから。

 だから、電話で相談を受けたら、すぐに訪問するように部下に指示していた。

 

 ブログは、相手が見えないため誤解している部分が多々あるのかなと思う。

 そのように感じながら、すごく感じ入るブログを前に、しばし考え、時を経てまた考え・・・時が過ぎる。

 ここを書きたかったのだが、私には表現の仕方がわからない。

 

 当初書こうとすることと内容がだいぶ変わり、結局私は、なにを言いたかったのか自分でもわからない。

 一貫性がない文章で、かつ長い文書になり、読んでいただきました皆様にお詫びとお礼を申し上げます。

ポピー

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ジキタリス

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シラン??

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差別用語の改正に疑問を感じることがある。

 大学などに保存されているアイヌの先祖の遺骨をアイヌ文化施設に返還されつつある。

昭和50年頃に「アイヌ」は差別用語だと関係者?の声で「ウタリ」と表現されたが、平成8年ごろ、民族的な誇りの尊重として、呼称を「アイヌ」に戻された。

 アイヌを差別していたのは事実であるが、「差別用語」として呼称までを変えるべきだったかと疑問を感じたものである。

「障害者」を今は「障がい者」と表現している。

「害」がある人のイメージだとのことだが、ならばまるっきり変えたほうが良いと思う。

 かって、友人の障害者が私に言った。 

英語表現では「ハンディキャップを持つ人」・・・

自分にはハンディを持たされてみんなと同じ生活は無理と。

 呼称を変えることの必要性は私にはわからない。

ハンディを少なくすることが必要で、それは身近な者が、行政ができると思う。

例えば、公共施設の入り口は階段で、横の方にスロープがある。

真ん中に、あるいはすべてをスロープにすればよいのではないか。(スロープに改善点があるのは承知している)

これは障害者のために特別に経費をかけるのではなく、乳母車にも、高齢者にも、たまたま腰を痛めた一般人のために。

 

2㎝未満の花

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エレムレス

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オダマキ

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カルミア

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シモツケソウ??

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「キッカケ」は出会い・・・「動機」という言葉は死語ですか?

 ここ数回私のブログの写真は花ばかり。

小鳥が目につかないし、何かを感じる風景もないから。

 学生の時と30代の精神的に疲れていたとき、花を見て自分を見つめるというか、美しさを感じ、心にゆとりを感じたのは2回だけ。

 ほとんどが花を美しいとは思わず、関心もなく・・・。

職場や、自室の机に花を飾られたとき、花瓶を倒して書類がぬれたら・・・と、仕事の邪魔をされた気持であった。

 

 今は暇があれば花を撮っている。

ある日、庭の花を撮ってほしいと言われ・・・それが病みつきになったキッカケ。

 見た目の美しさとは別の、レンズをとおしての魅力がある。

特に小さい花は、カメラで拡大すると目に見えなかった魅力を感じる。

 ところが、花の手入れをしている人自身が、花の名前を知らないままにいる。

 花の特徴も手入れの仕方も知りながら、名前を知らないことをなんとも感じていない。

 綺麗であれば・好きであれば・・・それでいいのだ。

 「おおらか」と言われる北海道人の特徴なのだろうか??

 実家から移植したモノが10年で初めて花を咲かせたと・・・名は知らない。 

 

(軒先の地面にはう植物(後ろは家の壁)~普通の撮影方法)

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この花の後ろ(家の壁側)に鏡を置いて、空を鏡に映しバックを空(青)にしました。

右横にかすかに写る花は、鏡に映った中央の花。

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青色の中央にある白色は空の雲。向かいの家や電線が入り込まないようにしました。花は2対しかありません。

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花に魅力を感じたキッカ・・・ 〇 〇 のキッカケ。

キッカケという言葉を最近このブログで多用している。

いろいろな精神的・物理的条件がキッカケをつくるが、すべて何らかの出会い・・・それに感謝するか?後悔し恨むか?

かっては、「キッカケ」と「動機」の言葉が使われていた。

「動機付け」なんていうものを研究していたこともあったが、今や「動機」と言う言葉は死語になったのだろうか?

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ミリ単位の花1

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ミリ単位の花2

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物事の先駆けは日の目を見ないまま消え去ることが多い

 私が愛読している「 softwind(kihaseason2015)」さんは、記念日や催事などを毎日知らせてくれている。

よくもまあ・・・と思うほど、詳しく調べているものだと感心している。

 老人施設(介護の必要ない高齢者が入所している)の所長をしていたとき、週に1度挨拶をするのだが話題が尽きるので、今日は○○の日などと言ったものであるが、その頃に「 softwind」さんのブログがあったらなあと思う。

      (そのような立場にある後輩にこのブログを教え、

       現在数名がこれを見て参考にしている)

 今日は「もつ焼の日」だそうだ。

佐世保に本社を持ち、食肉やホルモンを扱う会社が平成23年に制定したとのこと。・・・制定されてまだ5年とは意外だ。

もう60年ほども前の記憶を思い出した。

 調理や味付けを研究しやっとできたと、ジンギスカンの店主が持ってきたのが今で言うホルモンだった・・・美味しかった。

「え、内臓・・・」「捨てるものに金を出すのか・・・」と結局商売にはならなかった。

ホルモンが認知され始めたころ、その店主はすでに他界していた。(戦時中・終戦直後には類するものがあったようだが)

物事の先駆けが、日の目を見ずに消え去ることをいろいろ見てきたが、このホルモンもそれにあたるのだろう。

 

 内臓は食物を消化するが、その内臓(ホルモン)は消化しやすいと言う・・・矛盾しているではないか。

子供の頃感じていたこの疑問は大人になってから解決した。

胃は胃酸を出すとき、同時に胃酸から胃を守るための作用を働かせているという。

自律神経の問題などでコレができなくなったとき、一夜のうちに胃に穴が開くこともこれで理解した。

 

終わりを迎えて アヤメ

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丸を形成する アリウム 

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クレマチス

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シレネ

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ペンステモン

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ミヤコワスレ

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