表現する側と、理解しているつもりの受けて

 日常の具体的話題や共通の話題ではなく、哲学や倫理・心理など抽象的内容についてを考えた時。

 

 私が言わんとする趣旨を、言葉足らずであってもわかってくれるのは、私が語る前からそのことを(賛同する、しないにかかわらず)おおよそ理解しているから。

  ならば・・・相手が知りえることを、語る必要はあるのか?

 一方、言わんとする趣旨に対する視点が異なっていたり、その基礎知識が相手になければ、どのように説明しても理解はされないであろう。

あるいは「そうだよね」と言いつつ勝手な解釈をされてしまう。

  ならば・・・理解しえないことを、語る意味はあるのか?

 そんなことを考えていた時期があった。

 

 人は、今の生活維持や改善、問題の解決を考えることが日常。

 人とは?生きるとは?なんていう抽象的なことはもちろん、自分の将来?は、ふと考える程度のもの・・・でも考えている。

     (これを集中的に考え込んでいるときは、

       何らかの精神的苦痛を受けている時)

 だから、日常生活の会話・考えには、無意識のうちにその抽象的考えが基本に(自分自身に)なっている。(理論立てができなくとも)

 

 私は相手の気になる発言の時、発言内容のほか、手をあごに当てていた・上を向いていた・・・など状況も把握するようにしている(言うは口だけでなく、聞くは耳だけでなく)。

 それを繰り返すと、なぜそのような発想になるのか・真意は何なのかが大よそわかり、次の行動を察知できる場合があるから。

 だから、電話で相談を受けたら、すぐに訪問するように部下に指示していた。

 

 ブログは、相手が見えないため誤解している部分が多々あるのかなと思う。

 そのように感じながら、すごく感じ入るブログを前に、しばし考え、時を経てまた考え・・・時が過ぎる。

 ここを書きたかったのだが、私には表現の仕方がわからない。

 

 当初書こうとすることと内容がだいぶ変わり、結局私は、なにを言いたかったのか自分でもわからない。

 一貫性がない文章で、かつ長い文書になり、読んでいただきました皆様にお詫びとお礼を申し上げます。

ポピー

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ジキタリス

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シラン??

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